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新海誠監督の「天気の子」の最速上映に行ったので、視聴中になんとなく考えていたことを順次まとめて行く。

未完成の稿、ネタバレあり。

 

・前半をまとめると

ヒロインが天気を操る能力を行使する

→周囲の要求に応え、御子としての役割を演じる

→ヒロインは陽菜という人格から、晴れ女としての装置へ

→陽菜としての存在の透明化、消滅

 

最初ヒロインはバイトをクビになり、水商売に手を出そうとしていた(自己肯定感は低いし、生活状況は悪い)。

が、主人公と一緒に晴れ女をやることで、他人から能力を期待されることに生きがいを見出す。

その後、なんやかんやあったのち天候を操る能力を持つものは人柱として異常気象を抑える未来が待っていることを知る。

(中)

 


最後に主人公が「晴れの方が良い」=自己を押し殺して、社会に迎合してでも安定した周囲の世界の方が好ましいということがとどめとなり、完全に自己を装置化した。

 


・結論について

主人公が陽菜を助けに行く

→雨が降る=能力に依存しない自己自身でいることを肯定する(周囲の希望に無闇に迎合していくことを否定)

→陽菜という存在の復活と、それに伴う止まない雨(迎合をやめ、軋轢などの生きていく上で誰もが直面する歪みが生まれる)

→周囲の人間はその問題を「自分のせいではない、気にするな」というが、これは主人公とヒロインが主体的に選び取った自己の証であり、むしろそれこそが彼らの選んだ世界なのである

 

天候を操る能力で自己肯定感を得ている人物にとって、異常な雨をどうにかしないことは存在意義を失ったと思いかねない重大なことである。そこで主人公が、存在意義なんてなくても君にいて欲しいと伝えることで、装置としての天気の子じゃなくて陽菜として存在できるようになった。

自己を殺して装置としての周囲の願いを叶えていけば周りとの衝突はうまない(晴れ)が、一人の人間として生きる以上常にどこかしらで他者との衝突(雨)は生まれる。その衝突は決して異常な状態(天気)じゃなくていつの時代にも誰もが経験してるありふれたものだから、誰のせいでもなくただ存在しているもの(須賀の言い分)なんだが、主人公達は主体的にその衝突を受け入れに行った。つまり最後の雨に濡れ水没した東京は、主人公達が自分として周りと向き合って生きることを覚悟したその選択の結果ということ。

 

 

あと、新海監督も上映後にいってたけど、RADWIMPSの曲の歌詞がとてもよくて、今度読みながらまた映画を観なおしたいと思いました。

文章はくどいし、無理やり変に読みすぎてるかなぁって部分もある気がするけど、まぁ深く推敲したわけではないので勘弁してください。

 

 

よくわからないポイント

・はっきり言って拳銃使用はドン引きでは済まないので、普通ビルでキモいって言った後帰ってこない(子供なので好奇心などが勝った?)

・警察はもっと狡猾なので、頭のおかしそうな少年の発言を頭ごなしに否定はしない、特に銃器所持の疑いがあるので

 

覚えておくポイント

・付き合う前は断言していって、付き合ってからは曖昧に誤魔化す(小学生のアドバイス)