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コロナウイルスに関連する見えない恐怖は人々を自宅軟禁に追い込んだわけですが、私はこの期間にのんびりだらだらと積読を消化していました(ただし減ったとは言っていない。これが一時期『生物と無生物のあいだ』というベストセラーの影響で流行った動的平衡ってやつですね、知らないけど)。

思えば自分は本をよく買うけどそのうちの半数は読まずに本棚で眠らせている。この記事の読者がどれくらいこのこと知ってるのかわからないんですが、実は書店で買った本って特殊な電磁波を放っていて、積読してるだけでもそれが脳に直接作用して内容の一部をわかったような気持ちにさせるんですよ。知ってました?ごめんなさい、実は半分は嘘です。

まぁ読まずに分かった気になるのも読んでわかった気になるのも本質的には大差ない(どうせ一握の完全な未知情報以外は自分が読みたいようにしか本は読めない)ので、単純にそのトピックとの簡単な接触(文字列が目に入る程度)の回数が積めればいいや程度に思って本を買い足しちゃうんですよね。そんなわけで平衡が常に本増加方向に偏りがちな僕は、コロナウイルスという触媒とやる気という熱エネルギーでもって無理やり吸熱方向に進めたのです。

 

・最近読んだ本の中に、読む技術について速読や精読などにわけて頭の中でどういうストラテジーで内容が補完されていくのかみたいなことを書いたものがあった。重要な部分を拾い読みして読み飛ばした部分を補完する、行間に省略されたなにかを補完する、文字情報から視覚的な情報を補完するなどなど、まぁ日常的にやってることを改めて体系立ててまとめた、みたいな内容である。現時点ではまだ血肉になっていないが、このようなまとめは文章を書く上でも参考になるだろうし読んでよかったなと思ってる本の一つだ。

その本のなかにこのような一節があった。

「考えるとは、合理的に考えることである」

これは小林秀雄の言葉を筆者が"誤った類推による誤読を引き起こしやすい例"として引用したものであった。詳細は省くが、確かに私はこの1文を目にしたとき、まさしく(とまではいわないが大筋としては)筆者が言うような思考回路できれいに誤った解釈に誘導されてしまった(まぁ逆説オタク(≠逆張りオタク)の言うことを素直なステレオタイプで解釈しようとした自分が悪いんだが)。

私が実はあまり本を読まないということはよく話すのだがそれでも全くの無ではないわけで、この部分を読んで(誤読して)いるときは、そういえば普段本なんてあまり読まないのにセンター試験でいきなり小林秀雄の文章を読まされた学生がいると思うと同情を禁じ得ないなぁなんて他人事ながら彼らの当時の心境に思いを馳せていた。

 

・ところで、この一節を含む文章で小林秀雄が書きたかった内容は大雑把に言えば「合理的≠能率的」であり、能率的に考えること(=考える手間を省略する方法を考えること)と合理的に考えることを同一視する現代の考え方に対して一言物申すというものであったことが後の文でわかる。では改めて考えてみると合理的とは何なのであろうか。

辞書を見てみると一つ目の意味として「道理や論理にかなっているさま。」と書かれている。しかし、私には道理や論理の意味(妥当な方向付けのやり方)がわからない。理って一体なんなんだ?

小林秀雄はこの後の文で、真に合理的に考えるということは、これだというものを見つけそれについて固執してとことんまで考え続けることだといったようなことを言っている。

たしかにこれは一理あるように見える。考えることそのものを目的とした営みがそこにあるような気はする。しかし、現実的な目的を設定したときの能率を求めた、手段としての合目的的な考えるという営みにも一理あるように思えてしまう(ちなみに、この表現に関して調べてみたら「合目的的合理性」と「合法則的合理性」というような枠組みで別のことを考えてる人がいたらしいので、今回の表現はあまり好ましいものではなかったかもしれない)。考えることのイデアでも探せばこのどっちつかずな状況に終止符を打てるんだろうけど、あいにく私の理性はイデアを完璧に捉えることはできない程度にはちゃんと曇っているみたいなので、もっと日常会話的に解釈できるように換言したい。

 

・私は30秒くらい考えて、合理的とは「本当にそうなの?それで大丈夫って言える?」と聞かれたときにはっきりと「なにも問題ない」と堂々と言い切れるような姿勢を指しているのかなぁなんて思った。というのも合理的というのはやはり理に合っていることを指すので、合理的営みはそのどこで切って断面を見てもそれはやはり行為者にとって”正しい”のである(ちなみにこれ、目的をどこに設定するかによって合理的であることの意味合いが変わってくるので結局なにも解決してないんですよね)。私はここで理というものを目的に至るまでの正しい道程と置いて一旦議論から逃げたわけだ。

ただそのうえで、手段としての合理的な営みはあくまでその営みの本質(本質ってなんだ?)から演繹されたものであり、それは往々にして本質そのものから大きく乖離するものであるから、そういった意味で小林秀雄の言ったことは納得がいくなぁと思っている。

 

・ちなみにこの話はその後僕の中でハーモニーで描かれた世界を経由して人工知能と人間の境界にまで発展していく。行きつくところまでたどり着いた人工知能は、自然の代表となり手段としての究極の合理的思考をもって解を提示してくる。人間の思考が人間たりうることを許されるのは、解を見つける過程をいかに省略するかを考えているときではなく、考えるという営みそのものと向き合っているときなんだろう。

 

・ここまでだらだらとだらしのない文章を書いてきてなんだが、私は今この文章を見て悩んでいることがある。この文章を書くために自分が考えていたことは、「合理的とは何なのか」という自分が固執したいテーマを考え始めるところに端を発する「実践的には合理的という言葉の落としどころをどこにしようか」という能率を求めた考え方が不純物として多く混じってしまっているのだ。だらだらと実利から見てどうでもいいことを、かといって真剣に向き合うでもなく中途半端に考えては適当にラベリングして終了するこの「考える」という行為に、果たして意味なんてあるんでしょうかねぇ。