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Twitterでまたアカウントロックを受けた。解除するのは大した手間ではないが、もういい加減面倒だし腹が立つのでこれを機にTwitterを辞めようと思う。

思えばかれこれ11年くらいTwitterに時間を溶かしてきた。その間にいろんな人と知り合ったし、いろんなことを知ってきたけど、割と煮詰まってきていたかなという感じは正直あった。
別に社会性フィルターをかけようなんて考えたことはあまりなかった。いつも似たようなことを大したことないくせに真面目くさった文章で書くのがイヤになって、飯の写真と喃語とレベルの変わらない投稿しかできなくなってしまっていただけだ。それこそが昔自分で指摘した平坦でつまらないアカウントであるところの原因なのだろう。
もちろん、昔からさして多彩なことを考えていたわけでも、面白いことをしていたわけでもない。ただ自分という人間の初見の部分が残っているうちは良かった。人間としての底が見え始めてからは足がついてしまうことへの恐怖から、なんとかして潜航するスピードを遅くしようと自分の重さを、自分の密度をどんどん引き下げようと必死になっていたように思える。
しかし、そうやって成長を止めてしまった人間には脳までスカスカになって耄碌する未来しかないのである。

新しい刺激を求めて、昔からの知り合いじゃない人も少しずつフォローしていった。しかし、そんな程度で変わるほど事態は単純ではない。
さっき、山に登るときには身軽な方がいいという内容のツイートを見た。装備を見直すのもいいが、自重を10キロ減らすだけで装備を一部まるごと省略したのと同じ効果が得られる、といった内容だった。結局これが本質なのだ。
フォローという装備を微調整したら快適さが多少向上するだろうが、最も変動値が大きいのは結局自分自身を変えることなのである。

それでもTwitterに溶かした時間はやはり楽しかった。それはすべて承認欲求という陳腐なひと塊に押し込めることが可能かもしれない。それでも自分と近しい感性を持つ人、自分から見てとてつもなくすごいと感じる人、見てて応援したくなるような後進、何より自分を特段否定せずにしかし無視もせずにいてくれる人に囲まれた時間は、現実世界で孤独に喘いでいた時期も私を救済してくれていた。
Twitterで知り合った人の大半とのフォローという繋がりがいつしか私にはあって当然の、なんだかんだ言って丈夫なものに見えてしまっていた。その実は昔から変わらずあまりにもか細いものでしかなかったのに。私はその事実をわかっていて、敢えて見てみぬふりをしてきた。そのほうが居心地が良かったからだ。幸せの終わりなんて考えたくないに決まっている。自分に甘い私ならなおのことだ。恵まれたフォロワーたちはきっと私をおいてはいかないだろうという信頼という名の思考停止の上にあぐらをかいていた。結局私の方からそれを捨てることとなるのだが。
いや、これは少し嘘だ。本当はそれもわかってて、特に今後も仲良くいたい人で声をかけやすかった人とは実際に会って話してみたり、Twitter以外の連絡先を聞いてみようとしたりしていた。それでもやはり大半の、無視できないほどに私を救ってくれてきた人との交流はここだけだったし、相手もそれで満足しているのだろうとそのことを諦めていた。


Twitterを辞めたところで僕が溝に捨てる時間の量はあまり変わらないんだろう。ただこれからはそこに彼らの姿はないのだろうと思うと少し寂しいところがなくもない。

当分はないと思うが、また懲りずにツイッターを始めたとすれば今度はまた別のアカウントではじめるのだろう。
その時はちゃんとまた僕と出会い直してください。

 

フォロワーのこと、最後まで大好きだったよ、またね。