9/30

Twitterでまたアカウントロックを受けた。解除するのは大した手間ではないが、もういい加減面倒だし腹が立つのでこれを機にTwitterを辞めようと思う。

思えばかれこれ11年くらいTwitterに時間を溶かしてきた。その間にいろんな人と知り合ったし、いろんなことを知ってきたけど、割と煮詰まってきていたかなという感じは正直あった。
別に社会性フィルターをかけようなんて考えたことはあまりなかった。いつも似たようなことを大したことないくせに真面目くさった文章で書くのがイヤになって、飯の写真と喃語とレベルの変わらない投稿しかできなくなってしまっていただけだ。それこそが昔自分で指摘した平坦でつまらないアカウントであるところの原因なのだろう。
もちろん、昔からさして多彩なことを考えていたわけでも、面白いことをしていたわけでもない。ただ自分という人間の初見の部分が残っているうちは良かった。人間としての底が見え始めてからは足がついてしまうことへの恐怖から、なんとかして潜航するスピードを遅くしようと自分の重さを、自分の密度をどんどん引き下げようと必死になっていたように思える。
しかし、そうやって成長を止めてしまった人間には脳までスカスカになって耄碌する未来しかないのである。

新しい刺激を求めて、昔からの知り合いじゃない人も少しずつフォローしていった。しかし、そんな程度で変わるほど事態は単純ではない。
さっき、山に登るときには身軽な方がいいという内容のツイートを見た。装備を見直すのもいいが、自重を10キロ減らすだけで装備を一部まるごと省略したのと同じ効果が得られる、といった内容だった。結局これが本質なのだ。
フォローという装備を微調整したら快適さが多少向上するだろうが、最も変動値が大きいのは結局自分自身を変えることなのである。

それでもTwitterに溶かした時間はやはり楽しかった。それはすべて承認欲求という陳腐なひと塊に押し込めることが可能かもしれない。それでも自分と近しい感性を持つ人、自分から見てとてつもなくすごいと感じる人、見てて応援したくなるような後進、何より自分を特段否定せずにしかし無視もせずにいてくれる人に囲まれた時間は、現実世界で孤独に喘いでいた時期も私を救済してくれていた。
Twitterで知り合った人の大半とのフォローという繋がりがいつしか私にはあって当然の、なんだかんだ言って丈夫なものに見えてしまっていた。その実は昔から変わらずあまりにもか細いものでしかなかったのに。私はその事実をわかっていて、敢えて見てみぬふりをしてきた。そのほうが居心地が良かったからだ。幸せの終わりなんて考えたくないに決まっている。自分に甘い私ならなおのことだ。恵まれたフォロワーたちはきっと私をおいてはいかないだろうという信頼という名の思考停止の上にあぐらをかいていた。結局私の方からそれを捨てることとなるのだが。
いや、これは少し嘘だ。本当はそれもわかってて、特に今後も仲良くいたい人で声をかけやすかった人とは実際に会って話してみたり、Twitter以外の連絡先を聞いてみようとしたりしていた。それでもやはり大半の、無視できないほどに私を救ってくれてきた人との交流はここだけだったし、相手もそれで満足しているのだろうとそのことを諦めていた。


Twitterを辞めたところで僕が溝に捨てる時間の量はあまり変わらないんだろう。ただこれからはそこに彼らの姿はないのだろうと思うと少し寂しいところがなくもない。

当分はないと思うが、また懲りずにツイッターを始めたとすれば今度はまた別のアカウントではじめるのだろう。
その時はちゃんとまた僕と出会い直してください。

 

フォロワーのこと、最後まで大好きだったよ、またね。

9/21

・なんとなく自分の文章がひどく気持ち悪く感じてしまい、一時期ブログを非公開にしていた。自分では自覚があまりなかったが、少なからず鬱のような状態にあったんだと思う。
そして、最近思うところがあり別のところでだらだらと文章を書いている内に、自分なんかに対する期待値を高めてどうするんだと考え直すようになり結局元に戻した。

 

・メンタルの調子が悪いとき、頭の中で今感じてる苦しみが無限にリフレインするようになる。

苦しみの刺激は単純に他のものよりも強いというだけなのか、無意識に自身の持つ苦しさを忘れないようにしてるのか。あるいは自分の少ないワーキングスペースの中だけで自分の状態を検討しようとし、あるところから限界を迎え思考を保持しつつ進めることができなり考えたそばから消えていってるのにも関わらず、無理に処理を進めようと現在の状態を参照し続けてしまっているのか。

何がしたいのかわからないが、少なくとも脳のリソースをわざわざ食い潰してまで苦しい気持ちを思いだし続けるのは事実なのでなんとかしなければならない。

 

そういうときに役に立つのがTwitterでありブログである。今の状態をとりあえずできる範囲で文字に起こしそこで零れた情報は無視すると決めれば、かなり楽になる。

以前触れたことがあるが、なにかを言語に圧縮する際には必ずロスが発生する。言語が無限の解像度を持てない以上それは不可避だ。そしてこれは人間の限界に関する悲報でもあると同時に救済でもある。

 

人間は忘れる生き物だ。特に覚える必要性を見いだせなくなったものに対しての記憶力の弱さは、読者諸兄にも日頃から身に覚えがあることだろうと思う。

自身の感じたものを文章という外部リソースに、完璧ではないけれども自分ではオリジナルの感情と明確な違いが指摘できない程度の精度で記憶させる。これによりオリジナルの感情は、googleフォトへのバックアップ時に削除される元の写真と同様にでかいだけの不要なものと認識される。その数日後にどうなっているかは、みなさんの想像の通りだろう。

自分の生の感情を文字に起こし、その後自分の身体から切り離したものを読むことで、忘れられた感情を感情移入の対象として客観的に想起する。この流れはある側面で試験勉強などにおいてよく揶揄される"無味乾燥な暗記"というものを逆に自分の感情に対してやっているとも言える気がする。そして文章から逆輸入したものを"自分の感情"だったとして上書きする。

文字に書き起こされ読まれることで定着した感情の記憶は、既に細部の欠落した情報が更に圧縮された、つまりエピソードを削ぎ落とされた巨大な類型の一群として想起される。感情に附随する身体性が失われた読み物は、いずれただのエンターテイメントに成り下がる。

 

・実は8月頃にこことは別にまたブログを作り、鬱々とした気分の日に負の勢いに乗せて文章を綴っていた。少し文体を変えたりしながら書いていたのでなかなかに新鮮であった。

思ったことをちょっとしたメモにするだけではなく、だらだらとでも文章として書くだけで気持ちは落ち着くし、それが誰に見られるわけでなくても書くことそのものに意味があるのだなとつくづく再確認することができた。またなにか思うところがあればブログを書いていこうと思う。

7/5

・今日書こうと思ったものは総じて途中で着地点がわからなくなったので端書き程度に。

 

・言葉で自分の思いや感情を自由に表現する自由が大きく失われて久しいように思える。

言葉によるデジタルな世界の表現は過去の人たちのたゆまぬ文学活動によって、ニュアンスをわざわざ察するまでもなく世界をかなり細かい解像度で再現できるようになってしまった。無論それには受け手の十分な教養が必要ではある。そうではあるのだが、それにしたって今自分が抱いている”複雑で曖昧”に思える感情や認識は、大体の場合かなり近い意味合いを既に誰かによって言語化されてしまっていることに変わりはない。

今更になって我々の痩せ細った感受性でもって、雑な命名規則に則ったインスタントなものではない新たな言葉を生み出したところで、それは既出のものの再ラベリングであるか、世界に必要とされないほどにニッチなものであるかの二択となってしまうであろうと思い込んでしまう。そして大人になればなるほど、教養をつければつけるほどに嗅覚が過敏になっていき、既存の表現を探して現実をそちらに押し込めてしまう。

 

しかし、眼前の現実と過去の表現が対立したとき棄却すべきものは過去の表現なのである。既出の類似する更に洗練された表現があったところで、今この瞬間に生じた感想や見解を破棄する理由にはならない。

 

僕は今の時代を都市部で流れ来るファストフードのようなスラングをひたすら消費しつつ、与えられた無数の綺麗な言葉達をインスタにぱーっと並べて、その一方で言葉の伐採により砂漠化した土地でみんなが自分だけの新たな表現を探し飢えていると思い込んでしまっている。でもそれは悲劇のヒロインになることを希求する気持ちが見せるただの被害妄想で、自分のくだらない文章にも言語の世界の境界を押し広げる力はあるんだろう。

いつかの時代に開拓され、調べれば手軽に自分の求める表現を得ることができる。しょうもないスラングを使うだけで意思疎通のような何かを行うこともできる。言葉について多くを考える必要がなく気楽な世界で、逆に自縄自縛に陥っているこの状況を抜け出していきたい(と思って、最近は思ったことを独り言にしておくんじゃなくてTwitterなどに投稿するようにしてる)。

でもこれってもしかしたらすごく幸せなことなのかも知れないなぁ。

 

まぁ、それはそうと表現がくどくなりすぎるのはいい加減どうにかした方がいいとは思ってるけど。明らかに悪い癖なので。

 

・人間の多様性なんてたかが知れている。

というのも人間は多かれ少なかれ社会に影響されているからだ。社会が規定する無数の数直線において正負や大小はあれど実数で規定されるパラメーターを所持しているに過ぎない。その配分や極端な値を我々は個性と呼び、レーダーチャートがあまりにも歪で社会に適合できない人を障害者と呼んだりもする。

もちろんいわばiの係数が0でない数を持つような例外はいる。その例外が新たな数直線を作り出していくわけである。しかし、これもある数直線に対しa+biの形式のパラメーターである場合が多く、その場合派生元からの影響を避け得ない。

のか?

 

・このブログでは何かの本や記事であったり他人の研究であったりを援用したりすることがほとんどないので、いってしまえば私の妄想というか愚痴のようなものがつらつらと書かれてるわけである。それは主に自分が陥ってる陰鬱な固定的視点を紹介すると同時に、私(たち)はそれらを乗り越えられるはずだし乗り越えていきたいと思っているという祈りに近いものを提示するもので。

僕の文章はいってしまえば根性論とかそういった類いのものであるから別段根拠なんて必要ないのかもしれない。そもそも他人への主張がなければ根拠なんかなくても「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」という話なので。

まぁ日記なんてそんなもんといってしまえばそれまでだが、万が一何かちゃんとしたことを主張したくなったときにはちゃんと根拠を引っ張ってこれるようにしておきたいっすね。

当分は妄想を書き連ねるだけだと思うけど。

 

6/14

コロナウイルスに関連する見えない恐怖は人々を自宅軟禁に追い込んだわけですが、私はこの期間にのんびりだらだらと積読を消化していました(ただし減ったとは言っていない。これが一時期『生物と無生物のあいだ』というベストセラーの影響で流行った動的平衡ってやつですね、知らないけど)。

思えば自分は本をよく買うけどそのうちの半数は読まずに本棚で眠らせている。この記事の読者がどれくらいこのこと知ってるのかわからないんですが、実は書店で買った本って特殊な電磁波を放っていて、積読してるだけでもそれが脳に直接作用して内容の一部をわかったような気持ちにさせるんですよ。知ってました?ごめんなさい、実は半分は嘘です。

まぁ読まずに分かった気になるのも読んでわかった気になるのも本質的には大差ない(どうせ一握の完全な未知情報以外は自分が読みたいようにしか本は読めない)ので、単純にそのトピックとの簡単な接触(文字列が目に入る程度)の回数が積めればいいや程度に思って本を買い足しちゃうんですよね。そんなわけで平衡が常に本増加方向に偏りがちな僕は、コロナウイルスという触媒とやる気という熱エネルギーでもって無理やり吸熱方向に進めたのです。

 

・最近読んだ本の中に、読む技術について速読や精読などにわけて頭の中でどういうストラテジーで内容が補完されていくのかみたいなことを書いたものがあった。重要な部分を拾い読みして読み飛ばした部分を補完する、行間に省略されたなにかを補完する、文字情報から視覚的な情報を補完するなどなど、まぁ日常的にやってることを改めて体系立ててまとめた、みたいな内容である。現時点ではまだ血肉になっていないが、このようなまとめは文章を書く上でも参考になるだろうし読んでよかったなと思ってる本の一つだ。

その本のなかにこのような一節があった。

「考えるとは、合理的に考えることである」

これは小林秀雄の言葉を筆者が"誤った類推による誤読を引き起こしやすい例"として引用したものであった。詳細は省くが、確かに私はこの1文を目にしたとき、まさしく(とまではいわないが大筋としては)筆者が言うような思考回路できれいに誤った解釈に誘導されてしまった(まぁ逆説オタク(≠逆張りオタク)の言うことを素直なステレオタイプで解釈しようとした自分が悪いんだが)。

私が実はあまり本を読まないということはよく話すのだがそれでも全くの無ではないわけで、この部分を読んで(誤読して)いるときは、そういえば普段本なんてあまり読まないのにセンター試験でいきなり小林秀雄の文章を読まされた学生がいると思うと同情を禁じ得ないなぁなんて他人事ながら彼らの当時の心境に思いを馳せていた。

 

・ところで、この一節を含む文章で小林秀雄が書きたかった内容は大雑把に言えば「合理的≠能率的」であり、能率的に考えること(=考える手間を省略する方法を考えること)と合理的に考えることを同一視する現代の考え方に対して一言物申すというものであったことが後の文でわかる。では改めて考えてみると合理的とは何なのであろうか。

辞書を見てみると一つ目の意味として「道理や論理にかなっているさま。」と書かれている。しかし、私には道理や論理の意味(妥当な方向付けのやり方)がわからない。理って一体なんなんだ?

小林秀雄はこの後の文で、真に合理的に考えるということは、これだというものを見つけそれについて固執してとことんまで考え続けることだといったようなことを言っている。

たしかにこれは一理あるように見える。考えることそのものを目的とした営みがそこにあるような気はする。しかし、現実的な目的を設定したときの能率を求めた、手段としての合目的的な考えるという営みにも一理あるように思えてしまう(ちなみに、この表現に関して調べてみたら「合目的的合理性」と「合法則的合理性」というような枠組みで別のことを考えてる人がいたらしいので、今回の表現はあまり好ましいものではなかったかもしれない)。考えることのイデアでも探せばこのどっちつかずな状況に終止符を打てるんだろうけど、あいにく私の理性はイデアを完璧に捉えることはできない程度にはちゃんと曇っているみたいなので、もっと日常会話的に解釈できるように換言したい。

 

・私は30秒くらい考えて、合理的とは「本当にそうなの?それで大丈夫って言える?」と聞かれたときにはっきりと「なにも問題ない」と堂々と言い切れるような姿勢を指しているのかなぁなんて思った。というのも合理的というのはやはり理に合っていることを指すので、合理的営みはそのどこで切って断面を見てもそれはやはり行為者にとって”正しい”のである(ちなみにこれ、目的をどこに設定するかによって合理的であることの意味合いが変わってくるので結局なにも解決してないんですよね)。私はここで理というものを目的に至るまでの正しい道程と置いて一旦議論から逃げたわけだ。

ただそのうえで、手段としての合理的な営みはあくまでその営みの本質(本質ってなんだ?)から演繹されたものであり、それは往々にして本質そのものから大きく乖離するものであるから、そういった意味で小林秀雄の言ったことは納得がいくなぁと思っている。

 

・ちなみにこの話はその後僕の中でハーモニーで描かれた世界を経由して人工知能と人間の境界にまで発展していく。行きつくところまでたどり着いた人工知能は、自然の代表となり手段としての究極の合理的思考をもって解を提示してくる。人間の思考が人間たりうることを許されるのは、解を見つける過程をいかに省略するかを考えているときではなく、考えるという営みそのものと向き合っているときなんだろう。

 

・ここまでだらだらとだらしのない文章を書いてきてなんだが、私は今この文章を見て悩んでいることがある。この文章を書くために自分が考えていたことは、「合理的とは何なのか」という自分が固執したいテーマを考え始めるところに端を発する「実践的には合理的という言葉の落としどころをどこにしようか」という能率を求めた考え方が不純物として多く混じってしまっているのだ。だらだらと実利から見てどうでもいいことを、かといって真剣に向き合うでもなく中途半端に考えては適当にラベリングして終了するこの「考える」という行為に、果たして意味なんてあるんでしょうかねぇ。

4/28

Twitterの様子などを見る限り毎食ラーメンか牛丼を食べては寿司を食べたいと言い続けている一般的な一人暮らし男子大学生の私ではあるが、意外なことに他の一般的な一人暮らし大学生らと同様にほんの少しだけだが自炊をする。おかげで実家に帰った時も、両親が出払っていれば冷蔵庫の中のもので適当に作って食べることくらいはできるようになった。

シンプルな野菜炒めに始まり、唐揚げ,天津飯,チキンの香草焼き,キノコのポタージュなど、料理に目覚めつつある料理初心者の定番料理くらいまではなんとか作れる。まぁ2年も自炊してればあれよあれよとレパートリーは増えていくものだ(但し、味は保障しないのでくれぐれも僕以外の人は食べようなどとは思わないように)。

定番な料理の一例にローストビーフが挙げられるだろう。比較的手軽に作れる料理として料理初心者にも人気があるように私は思っている(勘違いだったらすみません)。大体定番なところは私も一度は作ったことがある気がするが、実はローストビーフは作ったことがない。作り方さえもあまり知らないし、そして多分これから先も当分作り方を調べることはないだろう。というのもこれは私の父親がよく作っていたものだからだ。

 

・父親も40年くらい前には今の私と同様に一人暮らしの一般的な男子大学生だった日々を過ごしていたらしく、話を聞くに私の生活における牛丼とラーメンを定食に置き換えただけみたいな食生活だったらしい。そして私と違い早々に結婚、料理からは遠ざかった。

私が高校を卒業してしばらくたった頃、母親が一時家事のできない状態になったことがある。私の生活能力が皆無だったこともあり一切の家事を父親がすることになったのだが、毎日毎回外食をすることができるほど金が余っている状態ではなかったのでこの時期は父親が料理をする機会が多くなった。そのときによく出てきたのが、ただのもやし炒めとローストビーフである。どうやらこの時期にネットで調べて、材料が少なく作業工程の少ないものとして白羽の矢が立ったらしい。

このローストビーフだが、少し固くてパサパサしてたり筋張ってたりと正直そこまで美味しいものではないのだ。比較的工程が少なく簡単とはいえ、料理初心者が自宅で作れる料理の味なんてたかがしれているということである。「素直に買った肉をそのまま焼いて食ってればいいものを」なんて思いながら、それでも私たちが飽きないようにと料理をしようとしてくれる父親に感謝しているので、美味しい美味しいと言って噛みちぎるのに苦労するローストビーフを食べていた。それに気をよくしたのか父親はローストビーフを自分の得意料理だと確信したらしく、しばらくする頃には作る頻度がかなり多くなっていた。

1年弱ほどして母親の具合が良くなると、当然ながら父親が料理をする回数は自然と減っていった。それでも月に一度くらいは週末に少し固いローストビーフを作り、得意げな顔で家族に振る舞った。くちゃくちゃといつまでも噛み続けながら、いつしかその味が特別な日常であるな、と感じるようになっていった。

 

・それからまたしばらくして、私は一人暮らしを始めることになる。自炊も始め、レシピを見れば完成予想図のおいしさ3割減みたいな料理を作るくらいの料理スキルは手に入れたように思える。多分今の自分がちゃんとローストビーフの作り方を読んで、しばらく練習すれば父親と同じかもう少し美味いものが作れるんじゃないだろうか。

それでもローストビーフの作り方は覚えない。いまでもたまに実家に帰った時に父親がみせる得意げな顔を純粋な気持ちで見ていたいから。

2/4

・昔から弱音を吐くのだけは得意だった。何もできないように見える自分にあれこれと理由をつけて自分のせいではない、どうしようもないんだと納得させてきた。弱音を他人に見せるたびに副流煙を吸い続ける自分は、刷り込まれた弱音に支配されて自己肯定感を汚していった。その名残は30を目前にした今でも消えてはくれない。手で触れない奥底にこびり付いた自己否定はこの先洗い流されることはないようにも思える。

弱音には依存性がある。自分で言う「もう自分には無理だ」「自分はダメな奴なんだ」という言葉がもたらす赦しがいかに優しいものか、聡明なる読者諸兄に説明は不要だろう。

インターネットに没頭する前からそのきらいはあったが、インターネットで無数の他人を観測してからは輪をかけて酷い。どの分野ですらお山の大将程度にもなることができないということをいやでも実感させられる。そうなったら弱音に頼って依存してしまうのも無理もない。これも弱音だ。

 

多感で繊細な中高生時代を終え、最近はそんな自分でも評価してくれる人ができるようになった。自分としては特に変わっていないつもりなのだが所属するコミュニティが変化して年下との接点が増えたことや、どうにも人間は想像以上に騙されやすい生き物であることなどから僕の実際を過大評価する人がちらほらと表れたようである。

こういうと、人生が好転し自己肯定感が高まる予兆を感じるだろうか。しかし、私も曲がりなりにも最低限人間的な理性を持っているので、客観的に評価した時の得意分野で評価をされたところでそれが私の心を打つことはない。とうの昔に自己の内に為され捨て置かれたものであるから、あるいは高みの存在に見下ろされながらあるのだという自覚を強めるだけのものであるからだ。自分が内面化した評価軸で比較し、されている間は自分よりも上位の何かしか目につかない。

結局私のような人間の自己肯定感なんていうものは自分で手に入れるしかない。弱音なんかに依存している場合ではないのである。普通に意思が弱くて無理だけど。これがすでに弱音だけど。

 

じゃあどうやって自己肯定感を手に入れようか。私はまだ満足に手に入っていないので何を言っても空々しいことは承知だが、結局見栄を張って(自信があるように振舞って)自己否定に触れる機会を減らすことしかないようにも思える。

そのとき、見栄を張っている自己に自覚的でもそれを自嘲的に眺めたりしないこと、可能なら自分の人生に対する没入度合いをもっと高めること。メタ認知の魔手がむくむくと顔を出してしまったとしても、自信のある自己を演じてくれる愚かな演者に対して最大限の感情移入(=登場人物としての自己(あくまで他者)の心情の再現≠メタな視点にいる自己の投影)をすること。

私はこれを踏まえていろいろな挑戦をしていきたい、だらだらとでもいいからとかいう弱音をぶら下げててもいいから。

1/7

・昨日は誕生日でした。祝ってくれた方々ありがとうございます。

 

・何かのコンテンツを消費した時に自分の思ったことを表現することがとても難しい。

コンテンツの楽しみ方にはテーブルマナーのようなものがあるように思える。コンテンツの受け取り方がうまい人たちはナイフやフォークのような道具を使ってコンテンツを丁寧に切り分けては口に運ぶ。そうして“正しく”食されたものを素材と調理法に対する深い知識から解釈し、その進歩的な点や洗練された点を鮮やかに評価し、改善すべき点をさりげなく指摘する。

もちろん、その作品に対してどう感じたか、どう味わったかは個人の自由だしそれを否定することはできないというのはそれはそうなのである。しかし僕は恐れをなしていつもそれから逃げてしまう。

次第に自分の無能さにすらおびえ、コンテンツを摂取することすら怖くなってきてしまった。コンテンツを丁寧に、隠し味まで自覚的に堪能する姿を見せつけられすぎて、自分の生の感覚としての楽しさを信じられなくなってしまった。自分が面白いと思ってゲラゲラと大笑いしたあのシーンは、拳を握り締めて震わせながら胸を滾らせた熱いシーンは、悲痛な覚悟にこちらまで胸が苦しくなったあのシーンは、本当にそれを、それだけを含意したものだったんだろうか。疑念を持ってしまったら、もうその思いを先人たちの保証なしに発信することなんてできなくなった。もはや、その作品がよかったか悪かったの感想まで人任せになり果てた。思いついた感想をgoogleで調べ、先人がいることに安堵し、いないことに動揺する繰り返しである。

おそらくこういうものはそういう隠し味なんかなくても伝わってきたものが最も表現したいものであって、そこさえとらえていれば大筋としては及第点の読者なんだろうと思う。そもそも隠し味は隠されているものなので分かることは前提とされていない。そして僕が遠く離れてるなと感じる人たちにも、既存の手垢にまみれた論点で作品を仕分けして押し込めているだけであるという側面はあるだろう。彼らの真似事なんかせずに思ったことを思った通りに表現すればいいんだろうというのもわかる。

しかし、じゃあ作品を見て素朴に思ったことって何だって言われてしまえば「おもしろかった」「すごくよかった」「泣けた」なんていう野性味あふれる洗練されてない言葉たちしか浮かんでこない。気の利いたところで自己投影の精度が高くなるエピソードと絡めて感情移入してしまったみたいなところが関の山である。ツールがなければポイントがさだまらず、ピンボケした感想しか出てこない。もちろん、その程度でいいような流動食のようなコンテンツならそれでもいいんだろう。しかし、フランス料理のような複雑な味わいを持つ骨太なコンテンツを、と思うとそうもいかない。

批評家の劣化コピーのさらに質の悪いコピーになるか、猿でも吐ける感想をよだれのようにたらし続けるだけの動物になるかしか自分には選択肢がないのである。

虚無ですね~。

 

・ついでに言うと、最近はコンテンツを消費した時に何も感想が残らない(それこそ「よかった」程度の感想しかない状態)というのが怖い。というのも実際そういうことがあるからだ。

昔はどんなにクソくだらない作品を読んでもどこかしらで思うところは生まれたし、今にしてみればしょうもない作品でも当時はあるシーンが好きだからという理由だけでお気に入りだったりした。

今は中途半端にかぶれてしまったせいで構成のうまさだとか文章のうまさ、作画の質、心理描写の丁寧さなどを気にするようになってしまった。そう、なってしまったのだ。別にその要素について明るいわけでもなく、見たところで正しく分析ができるわけでもないのに。

正しく分析できるわけでもないのにそういうところが目に付いてしまうと何が起きるか。自分の感想に自信が持てずに「きっとこの受け取り方であってるよな?」というもやもやした気持ちが生まれたまま作品の中ごろから終盤という一番盛り上がるタイミングを通り過ぎることになるのである。

そういう言ってしまえばディテールにあたる部分に目をとられて、全体としての作品に十分な没入感をもって楽しめないのは本当に不幸である。

ここまで物語に重きを置いて話してきたが、音楽にしろ美術にしろなににしろ話は同じである。

 

いったいこの歳になるまで何を見て生きてきたんだ。自分の感性の質の低さにはほとほと呆れしかない。そしてこんな記事を書いてまで人からの視線が気になるんですって自己紹介してしまっている自分が情けない。