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・昨日は誕生日でした。祝ってくれた方々ありがとうございます。

 

・何かのコンテンツを消費した時に自分の思ったことを表現することがとても難しい。

コンテンツの楽しみ方にはテーブルマナーのようなものがあるように思える。コンテンツの受け取り方がうまい人たちはナイフやフォークのような道具を使ってコンテンツを丁寧に切り分けては口に運ぶ。そうして“正しく”食されたものを素材と調理法に対する深い知識から解釈し、その進歩的な点や洗練された点を鮮やかに評価し、改善すべき点をさりげなく指摘する。

もちろん、その作品に対してどう感じたか、どう味わったかは個人の自由だしそれを否定することはできないというのはそれはそうなのである。しかし僕は恐れをなしていつもそれから逃げてしまう。

次第に自分の無能さにすらおびえ、コンテンツを摂取することすら怖くなってきてしまった。コンテンツを丁寧に、隠し味まで自覚的に堪能する姿を見せつけられすぎて、自分の生の感覚としての楽しさを信じられなくなってしまった。自分が面白いと思ってゲラゲラと大笑いしたあのシーンは、拳を握り締めて震わせながら胸を滾らせた熱いシーンは、悲痛な覚悟にこちらまで胸が苦しくなったあのシーンは、本当にそれを、それだけを含意したものだったんだろうか。疑念を持ってしまったら、もうその思いを先人たちの保証なしに発信することなんてできなくなった。もはや、その作品がよかったか悪かったの感想まで人任せになり果てた。思いついた感想をgoogleで調べ、先人がいることに安堵し、いないことに動揺する繰り返しである。

おそらくこういうものはそういう隠し味なんかなくても伝わってきたものが最も表現したいものであって、そこさえとらえていれば大筋としては及第点の読者なんだろうと思う。そもそも隠し味は隠されているものなので分かることは前提とされていない。そして僕が遠く離れてるなと感じる人たちにも、既存の手垢にまみれた論点で作品を仕分けして押し込めているだけであるという側面はあるだろう。彼らの真似事なんかせずに思ったことを思った通りに表現すればいいんだろうというのもわかる。

しかし、じゃあ作品を見て素朴に思ったことって何だって言われてしまえば「おもしろかった」「すごくよかった」「泣けた」なんていう野性味あふれる洗練されてない言葉たちしか浮かんでこない。気の利いたところで自己投影の精度が高くなるエピソードと絡めて感情移入してしまったみたいなところが関の山である。ツールがなければポイントがさだまらず、ピンボケした感想しか出てこない。もちろん、その程度でいいような流動食のようなコンテンツならそれでもいいんだろう。しかし、フランス料理のような複雑な味わいを持つ骨太なコンテンツを、と思うとそうもいかない。

批評家の劣化コピーのさらに質の悪いコピーになるか、猿でも吐ける感想をよだれのようにたらし続けるだけの動物になるかしか自分には選択肢がないのである。

虚無ですね~。

 

・ついでに言うと、最近はコンテンツを消費した時に何も感想が残らない(それこそ「よかった」程度の感想しかない状態)というのが怖い。というのも実際そういうことがあるからだ。

昔はどんなにクソくだらない作品を読んでもどこかしらで思うところは生まれたし、今にしてみればしょうもない作品でも当時はあるシーンが好きだからという理由だけでお気に入りだったりした。

今は中途半端にかぶれてしまったせいで構成のうまさだとか文章のうまさ、作画の質、心理描写の丁寧さなどを気にするようになってしまった。そう、なってしまったのだ。別にその要素について明るいわけでもなく、見たところで正しく分析ができるわけでもないのに。

正しく分析できるわけでもないのにそういうところが目に付いてしまうと何が起きるか。自分の感想に自信が持てずに「きっとこの受け取り方であってるよな?」というもやもやした気持ちが生まれたまま作品の中ごろから終盤という一番盛り上がるタイミングを通り過ぎることになるのである。

そういう言ってしまえばディテールにあたる部分に目をとられて、全体としての作品に十分な没入感をもって楽しめないのは本当に不幸である。

ここまで物語に重きを置いて話してきたが、音楽にしろ美術にしろなににしろ話は同じである。

 

いったいこの歳になるまで何を見て生きてきたんだ。自分の感性の質の低さにはほとほと呆れしかない。そしてこんな記事を書いてまで人からの視線が気になるんですって自己紹介してしまっている自分が情けない。