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・最近ふと気づいたことがある。今の自分には趣味というほどの趣味がないのだ。

もちろん、趣味としてやっていることがまるっきりなくなったわけではない。むしろ昔よりもよっぽど多趣味かもしれないとさえ思う。以前ほどではないが音ゲーだってやるし、RPGのようなゲームもたまに買ってはある程度コンプリートするまでやる。お世辞にも多いとは言えないが一定量は読書をしている。スポーツは水泳をメインにゴルフやテニスもちょこちょこやっているし筋トレも思い出したようにしてる。暇なときには好きな音楽をYouTubeなどで探すし、予定が合えば学友とカラオケに行ったりもする。ラーメンを食べに行くことは大好きだ。

だが、どれをとっても中途半端なのである。なにひとつとして「これを頑張ろう」という意思を持ってないし、自分はこんなことを考えてこんなことをやっている、と発信できるような状態ではないのである。

音ゲーは特に研究とかもせずだらだら数クレジットだけやって少し記録を更新したらしたらラッキーといった感じで何の目標も設定しない。RPG攻略サイトを見て手順通りにクリアしていくだけ。外食もそこそこうまい普通の店を見つけたら満足してそこにだらだら通い続けるし、期間限定メニューなんかが出てもいつもと同じのを頼むから変化がない。

そう、変化がないのである。新規性がないと言ってもいい。

半端にいろいろ手を出した結果どれも中途半端になり、どれも「やっているという事実」で満足してこれ以上を求めなくなっている。

趣味なんて本気にならなくても、そこそこくらいでいいだろうとも考えられる。しかし、一つ真面目に取り組んでる趣味もないような人間は、多少話術に長けていても話の内容がだんだんと薄くなっていくため大抵面白くないのである。

なぜ急にこんな話をし出したのか。それは自分のTwitterでの投稿があまりにも内容に欠いていて、驚くほど平坦で面白くなかったからだ。はっきり言ってこんな人間をフォローしようとは思えないし、自分が自分にフォローされたらフォロバするのをかなりためらうだろうと思う。だって全く面白くないし。

いい歳して未だに自己同一性の拠り所を求めてるのも恥ずかしい話なのだが、自分って何だと問われたときの答えが未だに自分で認められない。「あれでもありこれでもある」というのは「あれでもなくこれでもない」というのと本質的に大差はないのである。

一人の人間の持ち合わせるエネルギーというか集中力は有限で、その総和は年齢を重ねるごとに気づかない程度に少しずつ目減りしていく。その集中力をやりたくないことや大変なこと、やりたいことといった意識的な活動だけでなく、覚醒状態を保つことや考え事、ただ生きることなどといったものに、そのとき要求されているバランスで割り振って生きている。余計なことに集中力を割けば割くほど、本命の事柄への集中力は落ち込んでしまう。

自分の持っている集中力の使い方をもっと考えていきたい。あれもやりたいこれもやりたいっていう欲望に惑わされることのないように。