7/5

・今日書こうと思ったものは総じて途中で着地点がわからなくなったので端書き程度に。

 

・言葉で自分の思いや感情を自由に表現する自由が大きく失われて久しいように思える。

言葉によるデジタルな世界の表現は過去の人たちのたゆまぬ文学活動によって、ニュアンスをわざわざ察するまでもなく世界をかなり細かい解像度で再現できるようになってしまった。無論それには受け手の十分な教養が必要ではある。そうではあるのだが、それにしたって今自分が抱いている”複雑で曖昧”に思える感情や認識は、大体の場合かなり近い意味合いを既に誰かによって言語化されてしまっていることに変わりはない。

今更になって我々の痩せ細った感受性でもって、雑な命名規則に則ったインスタントなものではない新たな言葉を生み出したところで、それは既出のものの再ラベリングであるか、世界に必要とされないほどにニッチなものであるかの二択となってしまうであろうと思い込んでしまう。そして大人になればなるほど、教養をつければつけるほどに嗅覚が過敏になっていき、既存の表現を探して現実をそちらに押し込めてしまう。

 

しかし、眼前の現実と過去の表現が対立したとき棄却すべきものは過去の表現なのである。既出の類似する更に洗練された表現があったところで、今この瞬間に生じた感想や見解を破棄する理由にはならない。

 

僕は今の時代を都市部で流れ来るファストフードのようなスラングをひたすら消費しつつ、与えられた無数の綺麗な言葉達をインスタにぱーっと並べて、その一方で言葉の伐採により砂漠化した土地でみんなが自分だけの新たな表現を探し飢えていると思い込んでしまっている。でもそれは悲劇のヒロインになることを希求する気持ちが見せるただの被害妄想で、自分のくだらない文章にも言語の世界の境界を押し広げる力はあるんだろう。

いつかの時代に開拓され、調べれば手軽に自分の求める表現を得ることができる。しょうもないスラングを使うだけで意思疎通のような何かを行うこともできる。言葉について多くを考える必要がなく気楽な世界で、逆に自縄自縛に陥っているこの状況を抜け出していきたい(と思って、最近は思ったことを独り言にしておくんじゃなくてTwitterなどに投稿するようにしてる)。

でもこれってもしかしたらすごく幸せなことなのかも知れないなぁ。

 

まぁ、それはそうと表現がくどくなりすぎるのはいい加減どうにかした方がいいとは思ってるけど。明らかに悪い癖なので。

 

・人間の多様性なんてたかが知れている。

というのも人間は多かれ少なかれ社会に影響されているからだ。社会が規定する無数の数直線において正負や大小はあれど実数で規定されるパラメーターを所持しているに過ぎない。その配分や極端な値を我々は個性と呼び、レーダーチャートがあまりにも歪で社会に適合できない人を障害者と呼んだりもする。

もちろんいわばiの係数が0でない数を持つような例外はいる。その例外が新たな数直線を作り出していくわけである。しかし、これもある数直線に対しa+biの形式のパラメーターである場合が多く、その場合派生元からの影響を避け得ない。

のか?

 

・このブログでは何かの本や記事であったり他人の研究であったりを援用したりすることがほとんどないので、いってしまえば私の妄想というか愚痴のようなものがつらつらと書かれてるわけである。それは主に自分が陥ってる陰鬱な固定的視点を紹介すると同時に、私(たち)はそれらを乗り越えられるはずだし乗り越えていきたいと思っているという祈りに近いものを提示するもので。

僕の文章はいってしまえば根性論とかそういった類いのものであるから別段根拠なんて必要ないのかもしれない。そもそも他人への主張がなければ根拠なんかなくても「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」という話なので。

まぁ日記なんてそんなもんといってしまえばそれまでだが、万が一何かちゃんとしたことを主張したくなったときにはちゃんと根拠を引っ張ってこれるようにしておきたいっすね。

当分は妄想を書き連ねるだけだと思うけど。