9/21

・なんとなく自分の文章がひどく気持ち悪く感じてしまい、一時期ブログを非公開にしていた。自分では自覚があまりなかったが、少なからず鬱のような状態にあったんだと思う。
そして、最近思うところがあり別のところでだらだらと文章を書いている内に、自分なんかに対する期待値を高めてどうするんだと考え直すようになり結局元に戻した。

 

・メンタルの調子が悪いとき、頭の中で今感じてる苦しみが無限にリフレインするようになる。

苦しみの刺激は単純に他のものよりも強いというだけなのか、無意識に自身の持つ苦しさを忘れないようにしてるのか。あるいは自分の少ないワーキングスペースの中だけで自分の状態を検討しようとし、あるところから限界を迎え思考を保持しつつ進めることができなり考えたそばから消えていってるのにも関わらず、無理に処理を進めようと現在の状態を参照し続けてしまっているのか。

何がしたいのかわからないが、少なくとも脳のリソースをわざわざ食い潰してまで苦しい気持ちを思いだし続けるのは事実なのでなんとかしなければならない。

 

そういうときに役に立つのがTwitterでありブログである。今の状態をとりあえずできる範囲で文字に起こしそこで零れた情報は無視すると決めれば、かなり楽になる。

以前触れたことがあるが、なにかを言語に圧縮する際には必ずロスが発生する。言語が無限の解像度を持てない以上それは不可避だ。そしてこれは人間の限界に関する悲報でもあると同時に救済でもある。

 

人間は忘れる生き物だ。特に覚える必要性を見いだせなくなったものに対しての記憶力の弱さは、読者諸兄にも日頃から身に覚えがあることだろうと思う。

自身の感じたものを文章という外部リソースに、完璧ではないけれども自分ではオリジナルの感情と明確な違いが指摘できない程度の精度で記憶させる。これによりオリジナルの感情は、googleフォトへのバックアップ時に削除される元の写真と同様にでかいだけの不要なものと認識される。その数日後にどうなっているかは、みなさんの想像の通りだろう。

自分の生の感情を文字に起こし、その後自分の身体から切り離したものを読むことで、忘れられた感情を感情移入の対象として客観的に想起する。この流れはある側面で試験勉強などにおいてよく揶揄される"無味乾燥な暗記"というものを逆に自分の感情に対してやっているとも言える気がする。そして文章から逆輸入したものを"自分の感情"だったとして上書きする。

文字に書き起こされ読まれることで定着した感情の記憶は、既に細部の欠落した情報が更に圧縮された、つまりエピソードを削ぎ落とされた巨大な類型の一群として想起される。感情に附随する身体性が失われた読み物は、いずれただのエンターテイメントに成り下がる。

 

・実は8月頃にこことは別にまたブログを作り、鬱々とした気分の日に負の勢いに乗せて文章を綴っていた。少し文体を変えたりしながら書いていたのでなかなかに新鮮であった。

思ったことをちょっとしたメモにするだけではなく、だらだらとでも文章として書くだけで気持ちは落ち着くし、それが誰に見られるわけでなくても書くことそのものに意味があるのだなとつくづく再確認することができた。またなにか思うところがあればブログを書いていこうと思う。