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・この日記を解説して昨日でちょうど1年だったらしい。ものぐさな自分はろくに記事を書かなかったが、せっかくまた始めたのにまさか1周年もきっちり見逃していくとは、といった気持ちである。

 

日記は人生が充実していればしているほど書けるというイメージがありそうなものだが、自分の例だけを振り返ってみると案外そうでもない。むしろ、なにもないときこそ書けるものがあったように思える。

友人知人となにして遊んだ、何処へ行った、誰と知り合った、何を食べた。そういった内容を残しておきたいと思い始めたはずなのだが、そういった内容を人様に見せられる文章におこす能力があるとは思えないのか、あるいはただ単に充実した人生は疲れてしまい書き残す体力もないのか。はたまた刹那的に楽しんだ事は膨大で曖昧な感情のみを残し、それは事を時系列順に追うだけでは再現できないことに諦めてしまったからなのか。多分これらは全部含んでいて他にも認識していない理由があるんだろう。

むしろなにもないときは筆が乗る。考えることや得た情報は山ほどあるがそれは全部外部から強制的に投げつけられたものではなくて、自分の手で抱え込んでいったものだからだ。籠いっぱいのリンゴを頭上から落とされても全部は拾いきれないし、持った分を家へ運んでも大した量にはならないが、置いてあるリンゴを自分で腕いっぱい抱えて行くならリンゴそのものは少なくても家まで運べる量は増える、という例えを思い付いたがこれが本当に的を射ているかわからない。

 

結局書いた記事の大半はなにかの感想であるか、シャワーを浴びてるときや寝起きに布団でウダウダしながら考えたような、自分の体験群よりもっとろくでもない話ばかりだった。私の思考なんか読んで誰が楽しいというのか。

でもこの日記に存在意義がなかったとは思わないし、畳む予定もない。あくまで日記、備忘録としてだけど。