8/16

・夜の町を歩いていると、繁華街なのでキャッチに絡まれる。そして、比較的目立つ髪色(青)をしている自分は覚えられがちである。キャッチも客が引っ掛からなければ暇なんだろう、一人のキャッチが僕のことを覚えていてよく話しかけてくるようになった。「またお兄さんじゃないっすか」とか言いながら近寄ってきて、さっと勧誘してくるので適当に話ながら断ると「じゃあ次は考えてくださいよ笑」みたいなことを言われる。普段だったら面倒きわまりないことだけど、2日連続で同じ人と2,3回同じやり取りをしてると面白くなってくる。向こうはただの暇潰しだろうけど、仄かな親近感を覚えるまでになってしまった。でもさすがにそろそろ飽きたしもう辞めような。

 

 

・西医体に来たのだからグッズの1つでも買って帰るかと思い、アップが終わった頃に売店を見に行った。Tシャツやキャップ、タオルなどが売っているが、どれもやや値段が高いなぁと思い、明日も西医体はやってるからと言い訳をして買うのを先送りにした。昼ご飯を食べて他の部員を少し応援したあと再度売店を見に行ったら、Tシャツと気に入った色のキャップが売り切れていた。

欲しいと思ったらすぐに決めようねって話。

8/14

・金色のガッシュをとりあえず6話ぐらいまで観た。金色のガッシュ、とても良いですよね。僕ほんとに好きです。まだ見始めたところなので、良いところはこれからどんどん出てくるからすごく楽しみ。

屋上で清麿が来ることを一瞬も疑わないガッシュとか、「自分に嘘をついておらぬか」と清麿を焚き付けるガッシュとか、「化け物だけでは辛すぎるではないか」と雨に濡れながら溢すガッシュの気持ちとか、あとは清麿とガッシュのことを始めてみたときのシェリーの気持ちとか、もう本当初っぱなから良いところしかないっすよね。是非、心に一人ガッシュを持って生きていきたい。

 

 

・人間は歴史から学ばない。というか、今を生きる当事者である私たちは、日常的なことを無意識に抽象化することができず、過去の失敗の二の舞を舞っていることに気づかない。結局、すべてが終わったあとに「あぁ、これはあのときと同じ過ちを犯したね」と反省するばかりである。

例えば、最近はマナーという名目で色々な言葉が場面によって制限されている。これは結局新たなマナーを生み出すことで得をする人らがいるからに他ならない。はずなのだが、マナーを守っていれば自分は正しく、マナーを守っていない人間を弾劾できると思わせることで本来抑圧されてる側の人間に優越感を持たせられるし、結果自分で自分の首を絞めていく結果となる。僕はこれと似たもので16世紀ヨーロッパにおける宗教改革前後の流れを知っている。あの時は、協会側の利益のために「協会から贖有状を買うことがよい行いだ」とした。形式的な行為という簡単なもので信仰を示せることで短絡的な人間にとっては買うしかないとなるし、しかも協会としては売れれば売れるほど金が入る美味しい制度だ。形式を人々売って、正しさを勝手に認め、バックにいる組織が金を得るという構図がまさにそっくりではないかと思う。ではその後どうなったかといえば皆さんご存じの通り、ルターによる批判などを経て信仰は行為ではなく心だという批判が出たわけである。これもマナーの件によく当てはまるのではないだろうか。

この例はかなり長いスパンで考えたが、戦前の人らが考えたことを、戦争を知らない世代が多数となった今では忘れて結局似たようなことをやってるとか、オウムのことを忘れて似たようなことをやってるとか、よくよく探してみるとあちこちで歴史を再生産しているように思える。まぁだからといってどうしろというわけではないのだが、歴史を学んでおくと、自分のためにはなるかもねって話。

8/13

・関西から友人が来るという友人に昨日自転車を貸したのだが、帰ってきた自転車にポテトチップス入っていた。堅揚げポテトだった。いつかどこかで一回くらい「僕は堅揚げポテトが好き」といった気がするがそれを覚えていてくれたのだろうか。それがすごく嬉しかった。関西からきた友人も楽しんでいたらしいので、貸した甲斐があったというものである。

 

山梨県にある"忍野八海"(http://www.fujigoko.tv/viwp/hakkai/)という湧泉群に行きたい。富山県の魚津埋没林博物館だったり、行きたいところは尽きない。

行きたいところといえば、現実的ではないが深海にも行ってみたい。ビデオの映像だけなら何度か見たがあれは光源もセットなので明るいし、あの一部の映像の裏で無数のなにもない水だけの空間があると思うととても興味深い。そして何より海底の地形のダイナミックさがある。あの広大な海底に突き出すように伸びる海山であったり、どこまでも平坦な深海平原。最深の海溝に行けば水面は飛行機が飛んでいる高さにまでなる。どこまでも真っ暗で、孤独で、得体の知れない、マクロに見ればとてもダイナミックで喧しく、その実この地球で恐らくもっとも深い静寂のなかにある。そんな深海に、私は行ってみたい。

 

Twitterを見ていると、「◯◯に対してこうすべきだと思う人、リツイートお願いします」というような投稿が流れてくることがある。「N◯Kは解体すべきである」とか「某議員は辞めるべきである」とか。

そういう主張の正否はまぁさておき、これをリツイートすることにどのような意味があるのだろう。リツイートしたからといってその要求が達せられるわけはないし、そんなことより言いつけるべき場所は他に用意されてるだろう。そこが信用ならないなら、自分の力で変革を促すしかないし、そうなればすでに存在する支援者を可視化するだけじゃなくて広く啓蒙していくしかないだろう。

とするとリツイートさせることの目的は啓蒙なのか、とも思う。あぁ、なるほど、それなら納得できなくはない。自分の意見が周知されれば興味なかった人も感化されてくれると信じているのだろう。しかしTwitterって、割と近い属性の人(同じトピックに興味がある人)が凝集しがちな傾向にあると思うんだけど、単に数選千,数万程度リツイートされた程度で自分達の界隈から十分離れた人まで周知できてるのかなぁ。仮にできてたとして、その人たちにアピールできるほど興味深い投稿だったような気もしないし。まぁ全部主観に基づいてるので、根拠もなにもないのだけれど。

やっぱりなんであのような投稿がされるのかわかんないままだ。

 

8/12

・「花咲くいろは」は石川県を舞台にしたアニメであった。私が金沢に越してきてから早くも4ヶ月が経つが、7年も前の作品ということで完全に忘れていた。今回、Amazon primeの特典になっていたので劇場版の方だけ視聴した。

ストーリーだけでいえば極めてよくある日常に少し毛が生えたくらいのもので、でもその日常のなかに色々な大人と子供を見た。例えば緒花の母である皐月の学生時代にあった母親との葛藤であったり、例えばなこちがまだ若いながらに大人としての役割を果たそうと子供の自分を押し込んでいることだったり、例えばみんちが自分の視点だけでなく相手の視点に立つことを学んだことであり、例えば緒花の恋愛と皐月の恋愛の違いであったり、例えば皐月が自分の母親を見る視線の変化であったり。そんな大人と子供の間にあって、叫んで逃げたり、苦しんだり、少し成長したり、わかんないままそれでもなにか変わろうとしてる各々の輝きを見せている、そんな生き生きとした青春を感じた。

あと、劇場版なので作画がとてもよかったのと、昔テレビアニメを見た時はわからなかった金沢(香林坊)の景色が結構わかって嬉しかった。

 

・今日は1冊本を読んだ、といってもまだ1/6程度残っているが。

まず第一に自分の読みの浅さを痛感させられた。筆者は東大文学部を卒業後助教授や准教授をやって来た人だが、当然のことながら自分では今後も到底読み込めないであろうレベルで文章を読みこんでいる。しかし、このレベルの読みを読んだことで自分の読みのレベルの上限は引き上げられたと感じるし、詩を読むときに自分が普段考えてたことを利用する方法も少し学んだ。そういう意味でこの本は入試の解説本というよりも、人としての教養をつけるための本であったと感じる。(とここまで絶賛するように書いたが、ただの過剰な深読みなのかもなとも思わなくもない。不要じゃなくて誤りに近いレベルの深読みで、それを断言して書かれてるからなるほどと思ってしまっただけだ、と言われたらまぁそうかもしれないって思う程度には僕は自分への信用がない。)

今回の通読で自分が得られたものは「自分という存在を棚上げしない。所詮は同じ穴の狢であることを自覚すること(以前から漠然と思っていたが、はっきり指摘をされたように感じる)。」「境界と円環という概念があり、これらは生と死の関係を筆頭に様々な場面で見られること(そもそもこの発想を自分はあまり得意としていなかった)。」「自分がそもそも問題を認識できないようなところ、無意識に当然と受け入れてしまっているところがどこまで当然であるのかと問う必要性。」のようにまとめられると思う。

人間、というか私たちは自分の実感から疎遠なものについて、それがどんなに自分と関係があって、一度は考えたことがあったとしてもそれについて考え続けるのをやめてしまいがちである。例えば自分が生きている背景にある他者の死(存在の罪)であったり、その一例として自分が本来その内に存在しているはずの食物連鎖であったり、例えば人間はいつか必ず死ぬという事実であったり。しかし、それらに目を向けていない言葉はとても軽い。今のTwitterなどを見ていると、自分という存在を棚にあげて(なにかの問題があったときにそれを他人事と捉えて)、単なる綺麗事や正論でもって人を批判したいだけの人を見かける。まさにそういった人が現代文を学ぶべき理由がここに詰まっていると感じた。

境界と円環の概念はまだうまく纏まってないので、残りを読んだあとにじっくりまた考えることとする。とりあえず「境界は両義的であり、そのどちらか一方だけを見るのではなく、どちらも併せて抱え込んでいくことが境界とのふれ合い方。」「円環は時間であったり無知と知の関係であったり色々な場面で見られる彼岸と此岸の間の道で、その間には境界による断絶がある。」「断絶を乗り越えて向こうの視点を摂取することは困難だが、それが大事(雑)。」的なことだと思った(結構内容欠けてる)。

また、この本を読みながら派生して考えたことに、「火葬って食物連鎖を忘れさせる役割を果たしてるよな」ということがあった。食物連鎖では生き物は他者を食い、食われる関係にある。人間は一般に死んだあと土壌にすむバクテリアに分解されるが、火葬し壺に入れることで、バクテリアなどの他者に食われることなく自分で処理することができるだろう(昔は土葬なので恐らく腐敗していた)。自分が循環のうちにあり、他者の犠牲の上にあるという事実からの逃避であったり、腐敗する自己、変わり果てる自己からの逃避と死への忌避との関連付けて火葬を捉えることもできそう。火葬がこういう思想を生んだというか。

色々と書いたが、この本は汎用的に使える教養を深めるには非常によい本だと感じたので、特に自分を「優秀で社会問題にも関心があって、他の人を啓蒙してやらないといかん」と思ってる半端に頭のいい人に是非読んでもらいたい。世界が変わる人も少なくないだろう。