8/14

・この日記を解説して昨日でちょうど1年だったらしい。ものぐさな自分はろくに記事を書かなかったが、せっかくまた始めたのにまさか1周年もきっちり見逃していくとは、といった気持ちである。

 

日記は人生が充実していればしているほど書けるというイメージがありそうなものだが、自分の例だけを振り返ってみると案外そうでもない。むしろ、なにもないときこそ書けるものがあったように思える。

友人知人となにして遊んだ、何処へ行った、誰と知り合った、何を食べた。そういった内容を残しておきたいと思い始めたはずなのだが、そういった内容を人様に見せられる文章におこす能力があるとは思えないのか、あるいはただ単に充実した人生は疲れてしまい書き残す体力もないのか。はたまた刹那的に楽しんだ事は膨大で曖昧な感情のみを残し、それは事を時系列順に追うだけでは再現できないことに諦めてしまったからなのか。多分これらは全部含んでいて他にも認識していない理由があるんだろう。

むしろなにもないときは筆が乗る。考えることや得た情報は山ほどあるがそれは全部外部から強制的に投げつけられたものではなくて、自分の手で抱え込んでいったものだからだ。籠いっぱいのリンゴを頭上から落とされても全部は拾いきれないし、持った分を家へ運んでも大した量にはならないが、置いてあるリンゴを自分で腕いっぱい抱えて行くならリンゴそのものは少なくても家まで運べる量は増える、という例えを思い付いたがこれが本当に的を射ているかわからない。

 

結局書いた記事の大半はなにかの感想であるか、シャワーを浴びてるときや寝起きに布団でウダウダしながら考えたような、自分の体験群よりもっとろくでもない話ばかりだった。私の思考なんか読んで誰が楽しいというのか。

でもこの日記に存在意義がなかったとは思わないし、畳む予定もない。あくまで日記、備忘録としてだけど。

8/4

FACTFULNESSを3章まで読んだ感想

 

・日々更新される世界情勢に対して自分達が如何にバイアスのかかった認知をしているかを指摘する。そのために多くの人が既知のものとしてあまり深く考えずにさらっと流しているが、アップデートされたことで旧来の知識と随分異なった様相を呈している情報を提示して説明するといった感じの内容。

個人的には所得レベルに応じて4分割する話とか普通に知らなかったので興味深かった。イメージとしてレベル1~3と4の間に致命的な差を感じるが、これは自分の生活水準として耐えられる下限か否か程度の問題でしかないのだろう。

 

・訳文が読みやすいがやや冗長に思える。

ただ、これくらいの方がエンターテイメント性があって読みやすいかもしれない。

 

・この本に対して読む価値がなかったとか当然の内容とか言える人たちは、九分九厘が後知恵バイアスかただのマウントが取りたい知識オタクなので無視して構わない。

似たように認知バイアスの話をしている書籍は多く見るが、典型的で知名度の高い錯覚や特殊な事例を挙げるのではなく、この本のように実際にいま自分達が陥っているインパクトの強い話を例に挙げて解説しているものはこの手の話に興味がなかった人たちに対する説得力が違うので、少なくとも多くの人には読む価値がある。

というか認知バイアスを知っていても(この本が対象としているレベル4の層の人間、特に高学歴者は流石に知っているだろうという前提で私はいるが)、実践レベルでは自覚できていないということを可視化するのがこの本の趣旨なので、バイアスの種類や人間の認知の傾向を沢山知っているかどうかははっきり言ってどうでもいい。

 

・人間は自分の主観とその他でしか区別ができず、その他に対する想像力が致命的に欠如している。だから、バイアスを軽減しより正しい認識を得るには、知性よりも感情を優先してしまう自己をどこまで理性で騙せるかが勝負になる。

ファスト&スローとかでも散々言われてた統計を扱うのが平均的人類には早すぎることに代表されるように、人間に知性は向いていないですねといったところ。

世界は悪くなりつつあるわけではないし、むしろ統計的には良くなりつつあるから現状が悪いからって悲観することはないよと言うが、この本の存在が人間に知性への適正がまだないことを示唆しているので、それが既に悲観的にさせ得る材料になる。

僕が生きてるうちに世界が多少良くなったところで人間が知性に適応することはないんだろう、多少は現状より良くなるのだろうが。あるいは急速に知性的な動物に成長(進化)するのだろうか。

 

 

 

続きを書く予定は現状ありません。

7/19

新海誠監督の「天気の子」の最速上映に行ったので、視聴中になんとなく考えていたことを順次まとめて行く。

未完成の稿、ネタバレあり。

 

・前半をまとめると

ヒロインが天気を操る能力を行使する

→周囲の要求に応え、御子としての役割を演じる

→ヒロインは陽菜という人格から、晴れ女としての装置へ

→陽菜としての存在の透明化、消滅

 

最初ヒロインはバイトをクビになり、水商売に手を出そうとしていた(自己肯定感は低いし、生活状況は悪い)。

が、主人公と一緒に晴れ女をやることで、他人から能力を期待されることに生きがいを見出す。

その後、なんやかんやあったのち天候を操る能力を持つものは人柱として異常気象を抑える未来が待っていることを知る。

(中)

 


最後に主人公が「晴れの方が良い」=自己を押し殺して、社会に迎合してでも安定した周囲の世界の方が好ましいということがとどめとなり、完全に自己を装置化した。

 


・結論について

主人公が陽菜を助けに行く

→雨が降る=能力に依存しない自己自身でいることを肯定する(周囲の希望に無闇に迎合していくことを否定)

→陽菜という存在の復活と、それに伴う止まない雨(迎合をやめ、軋轢などの生きていく上で誰もが直面する歪みが生まれる)

→周囲の人間はその問題を「自分のせいではない、気にするな」というが、これは主人公とヒロインが主体的に選び取った自己の証であり、むしろそれこそが彼らの選んだ世界なのである

 

天候を操る能力で自己肯定感を得ている人物にとって、異常な雨をどうにかしないことは存在意義を失ったと思いかねない重大なことである。そこで主人公が、存在意義なんてなくても君にいて欲しいと伝えることで、装置としての天気の子じゃなくて陽菜として存在できるようになった。

自己を殺して装置としての周囲の願いを叶えていけば周りとの衝突はうまない(晴れ)が、一人の人間として生きる以上常にどこかしらで他者との衝突(雨)は生まれる。その衝突は決して異常な状態(天気)じゃなくていつの時代にも誰もが経験してるありふれたものだから、誰のせいでもなくただ存在しているもの(須賀の言い分)なんだが、主人公達は主体的にその衝突を受け入れに行った。つまり最後の雨に濡れ水没した東京は、主人公達が自分として周りと向き合って生きることを覚悟したその選択の結果ということ。

 

 

あと、新海監督も上映後にいってたけど、RADWIMPSの曲の歌詞がとてもよくて、今度読みながらまた映画を観なおしたいと思いました。

文章はくどいし、無理やり変に読みすぎてるかなぁって部分もある気がするけど、まぁ深く推敲したわけではないので勘弁してください。

 

 

よくわからないポイント

・はっきり言って拳銃使用はドン引きでは済まないので、普通ビルでキモいって言った後帰ってこない(子供なので好奇心などが勝った?)

・警察はもっと狡猾なので、頭のおかしそうな少年の発言を頭ごなしに否定はしない、特に銃器所持の疑いがあるので

 

覚えておくポイント

・付き合う前は断言していって、付き合ってからは曖昧に誤魔化す(小学生のアドバイス)

7/18

・最近ふと気づいたことがある。今の自分には趣味というほどの趣味がないのだ。

もちろん、趣味としてやっていることがまるっきりなくなったわけではない。むしろ昔よりもよっぽど多趣味かもしれないとさえ思う。以前ほどではないが音ゲーだってやるし、RPGのようなゲームもたまに買ってはある程度コンプリートするまでやる。お世辞にも多いとは言えないが一定量は読書をしている。スポーツは水泳をメインにゴルフやテニスもちょこちょこやっているし筋トレも思い出したようにしてる。暇なときには好きな音楽をYouTubeなどで探すし、予定が合えば学友とカラオケに行ったりもする。ラーメンを食べに行くことは大好きだ。

だが、どれをとっても中途半端なのである。なにひとつとして「これを頑張ろう」という意思を持ってないし、自分はこんなことを考えてこんなことをやっている、と発信できるような状態ではないのである。

音ゲーは特に研究とかもせずだらだら数クレジットだけやって少し記録を更新したらしたらラッキーといった感じで何の目標も設定しない。RPG攻略サイトを見て手順通りにクリアしていくだけ。外食もそこそこうまい普通の店を見つけたら満足してそこにだらだら通い続けるし、期間限定メニューなんかが出てもいつもと同じのを頼むから変化がない。

そう、変化がないのである。新規性がないと言ってもいい。

半端にいろいろ手を出した結果どれも中途半端になり、どれも「やっているという事実」で満足してこれ以上を求めなくなっている。

趣味なんて本気にならなくても、そこそこくらいでいいだろうとも考えられる。しかし、一つ真面目に取り組んでる趣味もないような人間は、多少話術に長けていても話の内容がだんだんと薄くなっていくため大抵面白くないのである。

なぜ急にこんな話をし出したのか。それは自分のTwitterでの投稿があまりにも内容に欠いていて、驚くほど平坦で面白くなかったからだ。はっきり言ってこんな人間をフォローしようとは思えないし、自分が自分にフォローされたらフォロバするのをかなりためらうだろうと思う。だって全く面白くないし。

いい歳して未だに自己同一性の拠り所を求めてるのも恥ずかしい話なのだが、自分って何だと問われたときの答えが未だに自分で認められない。「あれでもありこれでもある」というのは「あれでもなくこれでもない」というのと本質的に大差はないのである。

一人の人間の持ち合わせるエネルギーというか集中力は有限で、その総和は年齢を重ねるごとに気づかない程度に少しずつ目減りしていく。その集中力をやりたくないことや大変なこと、やりたいことといった意識的な活動だけでなく、覚醒状態を保つことや考え事、ただ生きることなどといったものに、そのとき要求されているバランスで割り振って生きている。余計なことに集中力を割けば割くほど、本命の事柄への集中力は落ち込んでしまう。

自分の持っている集中力の使い方をもっと考えていきたい。あれもやりたいこれもやりたいっていう欲望に惑わされることのないように。

7/10

先日彼女と別れた。


特に言ってなかったが、昨年の夏前くらいに知り合って、残暑の頃から付き合っていた。

付き合ってきた過程は大半を省略するが、まぁ良好な関係を続けていて目立った喧嘩もなかったと思っている。強いていうなら僕が彼女に与える刺激は彼女にとって物足りなかったかもしれないと思うが。

正直言って彼女は自分にとっての理想みたいな相手だった。確かに少々情緒が不安定なところはあった。しかし彼女は私の諸々が未熟でも受け入れてくれた、どんなときでも私を嫌わずに承認してくれた。重い束縛はなく、なにより声と見た目が可愛かった。

 

そんな彼女と、まぁそれはもう一瞬で別れてしまったわけである。

なんと愚かなことだと嘆くが全ては後の祭り。恐らく彼女と会うことはもう二度とないだろう。なにせ彼女は本来慰められるべき立場だったのに、過度に感情的になった私が容赦なく、酷く冷淡な言葉をかけてこっぴどく振ってしまったのだから。そして、彼女はその言葉を受けた後も私に手を伸ばしてくれたのに、意地になった私の方がそれを振り払ってしまったのだから。

色々と思い入れのある相手だったので正直言って未練はある。むしろ未練たらたらなくらいだ。ほとんど全てが初めてだったと言ってよい相手だから当然であると思う。

女々しい私はその後もめそめそと彼女のことを考え続けている。あのタイミングでこうしていればまだやり直せていたかも、この時点ではもう彼女の心は離れていたのだろう、そもそも彼女のしていたことは自分が怒るには十分すぎるものだったはずだ。幾度も反省と分析をしては、自分の判断は間違いではなかった、あるいは仕方なかったと納得させようとしている。

そもそも彼女と僕は性的嗜好などの観点で相性が良くなかった、別れた方がお互いの将来のためだった、恐らく彼女はもう新しい依存先を見つけてうまくやっている。付き合っていない状況への言い訳を考え続けてる。

結末はもう変わらないのだけれど気持ちに整理をつけるためには、どのタイミングの自分の行動が誤りで、どの行動は正しくて、自分は何に対して怒っていて、何に対しては許していたのかを正しく認識して記録しておく必要がある。忘れてしまえばまた同じことを考えはじめ、今この瞬間の自分の気持ちを再演してしまうから。

 

ここ最近僕のメンタルが安定してたのは恐らく彼女のお陰で、これからはまた元の自己中心的で不安定な承認欲求お化けに戻るだろう。死にたいという言葉は主義に反するからあまり明言はしないだろうが、なんとなく鬱々とした日々が始まっていく。この文章を書いている時点で、丸72時間は食事を全くとれていない。

今住んでいる部屋で遠距離だった彼女と時間を共有していなかった期間は、付き合っている期間の五分の一程度しかない。来年には思い出に押し潰されて死んでいるかもしれない、と他人事のように考えながら、既に眠れない日々を始めている。

 

 

やることがないので手始めに宅建士の資格を取ったら司法予備試験を受けようと思っている。これは別れるきっかけとなった日の前から考えていて、テキストを購入したのはきっかけとなった日のちょうど前日だった。

本当はこれも、ただ彼女に承認してもらいたかっただけなのかもしれない。

 

願わくば、彼女の今後の人生がこのまま私といた場合よりも幸せなものであるように。

11/21

僕は海が本当に好きだ。

まず水が10000メートルも積もってるっていう状況がすごく好き。正直想像を絶するスケールだ。海溝以外でも6000メートルとか積もった水。生身の人間は浅いところでしか存在を許されないけど、水って水中においては自由に高低を移動できる、好きな深さで浮遊できる。言ってしまえば標高6000メートルの上空(媒質は空気ではなく水だが)を自由に漂えるなんていうことを想像するとすごくないですか?深さじゃなくて広さを見ても到底想像できる範囲のものではない。海を見に行けばその大きさに圧倒された経験は誰でもあるだろう。あの面積、あの深さの水が存在する世界、それが海なわけである。

そんな海の中でも僕は特に深海に格別な興味がある。別に奇怪な姿をした深海生物に会いたいわけでも、深海に眠る資源に興味があるわけでもない。深海という場所そのものへの憧れがあるのだ。

その底に注目すれば広大な地面が広がっていて、でも光は途中で途絶えているから周囲は何も見えないほどの暗闇。そこに自分が存在する瞬間を想像する。生命も稀にしか見られず、稀に出会ったものすら視界が閉ざされた世界では感知できない。圧倒的な孤独。その空間を構成する水は熱塩循環と呼ばれる海水の移動で極々ゆったりとだけ流れている。そしてどこまで行っても果ての見えない大地。想像しただけで死ぬほど緊張してしまう。その中空にはさらなる虚無がある。前後左右、どこを向いても想像できないほどに広がっている暗黒の世界。海のアトラスなどでは何もない場所として描かれているこの中空部分が海の大部分を占めている。このあまりに広く、光の少なさからあまりに手がかりのない空想中の海中の空間は、宇宙とはかなり毛色の違う孤独を想起させる。そしてそのゾクゾクする緊張感のようなものを発する存在が、地上からあんなに間近に見られる海の奥底に眠っているという、日常とのある種の連続性が僕を強く惹き寄せるのだ。

以前は海山も含めた深海のダイナミックさについても触れていた。正直、自分でもなぜこんなに海に魅せられているのか未だに曖昧でよくわかっていないし、当然ここに書いた内容も何言ってんだと言われるようなものでしかないが、これらが僕が海を好きな理由の一端であると思う。

8/19

・みんな意外と人のことを見てる(というか僕が見てなさすぎるのかもしれない)っぽくて、車のなかで回りの人たちの話ばっかになると僕は全然ついていけなかった。僕の会話パターンには、手持ちの新たな情報を提示していくというのはあまりなく、既に出揃った情報に対して全く関係ない誰もが持ってる情報を繋げるとか、ただ反復するだけだけど言い方で調節する等が多いので、情報量勝負みたいな会話になると黙るしかない。常日頃から周囲に目を向けるということをサボりがちな僕は、そういうまさに地力を求められるような会話になるとすぐ終わってしまうので、普段から頑張っていかないと厳しい。